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補遺、東北振興について

この記事はC102で発行した同人誌の補遺として無料配布した内容となっています。 https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=2025322

 本文「”東北振興”という政策」の項目ではやや短めに、「東北振興会」と「東北振興調査会」の動きについて述べた。本文内では戊辰戦争を遠因とする流れを記述したが「東北振興会」と「東北振興調査会」では東北振興という流れは同じだが、立ち上がりの経緯が違うものであるが、やや乱雑に述べてしまっているので、ここでは補遺として改めて追っていきたい。  大正2年に設立された「東北振興会」は渋沢栄一を会頭とし、岩崎久彌、安田善三郎、三井八郎右衛門、住友吉左衛門ら財閥の人間を含む40名を会員とした東北産業振興を目的とした会だ。この会は明治期に工業化が進む他地方に比べ農業を産業の中心とし、度々凶作に見舞われる東北を憂い、商工業の発展を説いた半谷清寿(福島出身)の提言「東北地方産業振作」を見た原敬(岩手出身)が注目し、働きかけ設立されたものである。この会は凶作や米騒動に見舞われる東北地方救済の慈善活動を行ったほか、東北殖産会社の提案を行った。
 一方で昭和9年に政府内に設けられた「東北振興調査会」は恐慌や災害によって困窮した東北の救済に焦点を当てた調査会である。昭和に入ってからの世界・昭和恐慌による米・繭価の暴落、さらにそれによって引き起こされる昭和農業恐慌と、昭和6年、9年に発生した天候不順による大凶作、昭和8年に発生した三陸津波など農業を主とした東北地方に連続して襲い、農村を大きく疲弊させた。それら災害は飢餓や身売りといった極限の状態に人々を追い詰めていた。また東北地方では大地主への土地の集約が進み、自作農が少ない一方で他地方と比べ小作農の割合が多く、このことが更に拍車をかけた。当然恐慌や凶作によって自作農から小作農へと転落する農家もいた。こうした環境はマスコミが注目、また小作料の免除を求めた小作争議などに大きく発展し社会問題と化した。東北地方各市町村ではこうした状況を陳情し、またこの問題がクーデターなど政府を脅かす事態となり中国との戦争体制へと移りつつあったため看過できず、苦しむ東北地方の農村を救済するために政府が動くこととなった。また調査会とは別に緊急措置として穀物臨時交付法が成立し困窮農民への米交付が行われたが、これは貸付であり結局のところ債務として苦しめたほか、交付量が被災実態に比べ少ないなどの問題があった。
 「東北振興調査会」はこうした農村を襲う危機に対し立ち上がったはずで、東北地方からも救済を望む声が上がっていた。そうした東北地方の期待は各市町村や県議会・農会からの陳情で見ることができる。例えば政府無償米交付の陳情が出されていたり、小学校教員の給与未払いに対する国庫助成、国有林野の開放が出されていたり現行の問題に対する陳情が見られた。しかし昭和11年に調査会総会で答申された「東北振興第一期綜合計画」ではすでに内外の状況や東北地方の自力更生、多大な費用を望まずといった文言が並び、救済から国家を考えた広義国防(陸軍が唱えた軍備以外の生産力強化などが国防へつながるという考え方)へと内容が変質し戦時色の強い内容へと変化していった。また戦争へと歩みをすすめ、戦時へと移り変わる中で東北地方からの内容も時間と共に変化し広義国防を担うような内容へと変化していった。こうした役割を色濃くさせていったのは昭和10年に調査会事務局長に就任し、資源局の中心人物である松井春生の影響が大きいとされる。国家総動員体制下への移行を考えた資源政策論『日本資源政策』の著者であり、この本の中で東北振興を単にその救済目的でなく広義国防に活用することが強調されており、東北救済を目的を否定している。この考え方は松井が事務局長を勤めた調査会の内容にも反映されているはずである。
 「東北振興第一期綜合計画」はそれでも東北地方の工業化や産業振興に関わるもの、また一部ではあるが農業に関わる項目など30項目、昭和12年からの5カ年で3億円もの予算が付けられている。当時(昭和11年)の国家予算は240億円ほどで、1.25%もの予算が振り分けられていた。この計画によって、東北興業株式会社と東北振興電力株式会社の設立も決まった。だが、翌年には盧溝橋事件が発生し日本が戦時体制に移行したことで東北振興に関わる予算は昭和12年に1億9600万円まで大幅に減額された。これは予算の節約と同時に軍備拡張を意味しており、同年の陸軍の予算は前年の50億ほどから100億まで大きく伸ばしている。予算面からも国を挙げての戦争体制を見ることができる。この大幅な削減に対し東北選出議員は猛烈に反発・批判をしたが、戦争下にあって軍と政府の関係が強く結びついている状況では覆せるものではなかった。こうした中で東北振興の活路を見出すため軍部に期待を寄せる動きもあった。昭和12年に開かれた第10回総会では海軍山本五十六委員が海軍では工場の増築を考えており1つは東北に持っていきたいと意向を示している。これが火薬支廠(昭和12年決定、昭和14年開庁)のことか多賀城海軍工廠昭和14年公表、昭和17年開庁)のことかは明言されていないが、いずれにせよ海軍部内で東北振興(ないし広義国防)を理由に東北地方にも工廠を設置する動きがあったことがうかがえる。また東北興業株式会社と東北振興電力株式会社の両会社だが、こちらも成果が芳しくなかった。
 東北興業株式会社は東北振興のために設立した国策会社で戦争によって軍需品の資源開発と軍需品の生産会社への投資を事業として行うように変えられていた。当初は農村救済のため肥料事業が設定されていたものの、この事業は単なる投資事業に変化し直営事業として行われることはなかった。また他の事業においても安定的な収益を得ることができず、投資会社としてか十分な役割を果たすことができなかった。また株式においても東北人を優先し株券の発行を行ったが、疲弊する東北市町村や団体も株購入を行ってしまったため、代金未納問題を引き起こしていた。そもそも疲弊した町村・団体に余裕がなく、株を無理やりもたせたことに対しては県知事や農林次官から反省の弁が述べられている。東北振興電力株式会社においては東北興業における化学肥料生産のため安価な電力供給を目的として設立した。電力会社の成績は良好であったものの、昭和16年国家総動員体制の元同じく国策会社である日本発送電株式会社に吸収合併された。
東北地方における振興は工業化や自然災害における農業不振から発生し、その目的を困窮農民の救済として始まった。しかし政府による東北振興調査会は戦時体制に向かうなかで東北地方における資源に着目し次第に救済の意味合いが薄れ広義国体のために組み込まれ、国家資源の統制のためにその事業は骨抜きにされていき終戦を迎える前に解体されるに至った。小作人問題等、根本的な問題は戦後の農地改革まで先送りにされ、戦前の東北振興政策は未完のまま終わりを告げた。